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空間から見る韓国現代史、光化門
光化門600年:三つの物語 大韓民国歴史博物館 編

空間から見る韓国現代史、光化門

場  所:大韓民国歴史博物館

展示期間:2021年12月17日(金)~2022年3月31日(木)

  • 観 覧 料:無料
  • 観覧時間:午前10時~午後6時(閉館30分前まで入館可能)
  • 新型コロナウイルス感染症の拡大状況によって変更される場合があります。開館情報に関しては大韓民国歴史博物館のホームページをご参照ください
  • 観覧のお問い合わせ:02-3703-9200

展示にあたって



現在の光化門通りは、景福宮の南側にある正門から世宗路十字路に至る広い道とその周辺を指しています。

特に「六曹通り」と言い、朝鮮時代に6つの中央官庁が配置されていた光化門通りは、大きな変化の中でも現在まで国を象徴する空間として機能しています。

植民地支配から解放された後、光化門一帯が大きく変わったのは1960~1980年代のことです。

1960年代から始まった都心再開発と漢江以南地域の開発による大規模施設の移転、ソウルオリンピック開催に伴う都市整備や道路拡張、高層ビルの建設など、次第に現代的な都市空間へと変貌を遂げていきました。

自ずと光化門通りには、朝鮮王朝の中心であったという歴史性と、大韓民国の政治・行政・外交の中心という政治的象徴性、そして市民の文化活動と集団の意思表明が行われる集会の現場という公共性が混在してきました。

このような点から、光化門通りは複合的で重層的な性格を有する歴史空間として捉えることができます。

大韓民国歴史博物館と国立古宮博物館、ソウル歴史博物館は「光化門600年:三つの物語」というテーマのもと、光化門一帯の歴史・文化を探索する連続特別展をご用意しました。

大韓民国歴史博物館で開催される「空間から見る韓国現代史、光化門」は、その三つ目の物語となります。

今回の特別展を通して、大韓民国を代表する象徴的な空間である光化門通りが、韓国現代史の主な舞台であったことを再発見し、空間の変遷とともに韓国人の記憶に刻まれた様々な意味を反芻することで、光化門という空間の未来を見通す機会となることを願います。
第1部 取り戻した光化門
1910年の強制併合以後、日本は植民地支配のために景福宮の中に朝鮮総督府の庁舎を建てました。そして光化門を解体し、景福宮東門の北側へと強制移転させ、この通りを「光化門通」と呼びました。その後、世宗路十字路から太平路につながる道に植民地統治機関が集結し、光化門は植民地権力を象徴する通りとなりました。植民地支配からの解放とともに、光化門通りは私たちの元に戻ってきました。しかし、米軍政期と大韓民国政府の樹立を経ながらも日本によって演出された姿から大きく離れることはできず、韓国戦争によって大きな被害を被った後も、しばらくの間まともな再建作業すら行われませんでした。しかし、光化門通りは、4・19革命を皮切りに民主主義に対する社会的な熱望を盛り込む広場の役割を担うようになりました。
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1. 連合国の国旗が掲げられた朝鮮総督府庁舎の建物 2.大韓民国の正副大統領及び初代内閣のポスター 3.中央庁のハガキ 4.中央庁に向かって行進するデモ隊
第2部 光化門通りの開発と建設
1960年代、光化門一帯は本格的に開発され、モダンな景観が演出され始めました。モダンな建物が次々と建てられる中、5・16軍事クーデターの後に登場した朴正煕(パク・チョンヒ)政府は、経済開発を推進するため世宗路に国の行政機関を集中して建設しました。世宗路の道路幅は拡張され、地下歩道と歩道橋が建設され、光化門通りは次第に車中心の空間に変わっていきました。1980年代に至るまで、世宗路は権威主義的な権力を誇示する空間としての性格を強め、国軍の日のパレードのような公式的で厳粛な行事の現場として活用されました。また、政治的安定と国民統合のため、世宗路の景観に伝統的な要素を取り入れました。それと同時に、1960年代半ば~1970年代半ば頃、世宗路の周辺には経済成長と相まって消費と流行で活気に溢れた繁華街が形成されました。
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1. 国家再建最高会議、政府の新庁舎移転記念 1961年9月25日、チョン・ボムテ撮影 2.市民会館開館記念リーフレット 1961年、アン・チャンモ 3. 政府総合庁舎の新築案内書 1969年7月、ファン・ジホン寄贈 4.工事が完了した世宗路地下道 1966年、ソウル歴史博物館 5.ソウル特別市の交通案内 1966年6月10日 6.復元された光化門の正門と中央庁、そして世宗路の風景 1968年、国家記録院 7.キム・セジュン(1928-1986)、「忠武公李舜臣将軍像」の模型 1968年、キム・セジュン美術館 8. 映画「光化門通の子」のポスター 1976年 9.清進洞の住所が書かれた表札 メタデザイン研究室 10.国際劇場 1962年、国家記録院
第3部 光化門通りの現代的再構築
1960年代まで、海外のメディアから見た首都ソウルの姿はみすぼらしいものでした。韓国政府は、ソウルを海外のどの首都にも引けを取らないような、スマートな都市空間にしようという目標を立てました。そんな中、1968年の1・21青瓦台襲撃未遂事件によって、ソウルは北朝鮮の脅威から安全ではないという社会的な恐怖が増長されました。1970年代の維新体制の下、韓国・北朝鮮の体制間競争の中で、漢江以南地域の開発とともに漢江以北地域の都心再開発が積極的に推進されました。物理的な都市景観は、政府が成果を披露して宣伝するための良い道具であり、北朝鮮との体制間競争において優位を示すことのできる有効な手段でした。1980年代のオリンピックの誘致は、都心部の全面的な再開発とともに、光化門通りに変化をもたらすきっかけとなりました。政府の主導の下、世界的な先進都市に相応しい都心部のスカイラインを形成するための政策が推進されました。その過程で、光化門一帯の古い住宅と飲食店、名門校と予備校、出版社と書店、中小型建物の多くが漢江以南や周辺地域に移転するようになり、その敷地に中大型の高層ビルが立ち並ぶようになりました。今の光化門通りの現代的な空間構造は、ほとんど1970-80年代に決まったものです。
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1.政府果川庁舎の写真 1970年代、ファン・ジヒョン寄贈 2. 国立中央博物館の移転開館ポスター 1986年8月21日、パク・ヨンギュ寄贈 3.中部消防署の全景 1976年3月28日、チョン・ミンジョ撮影 4. 世宗文化会館の開館記念ネームプレート 1978年、ソウル歴史博物館 5. 5・18光州民主化運動の当時、デモ隊の光化門への進入を阻止する装甲車と軍人たち 1980年5月14日、チョン・ミンジョ撮影 6. 世界はソウルへ、ソウルは世界へ 1985年、ファン・ジホン寄贈 7.都心再開発の対象である新門路地区 1983年、ソウル歴史博物館 8.大韓教育保険会社の社屋に掲げられた業務開始案内の垂れ幕 教保生命 9. 工事中のピマッコルとビル 2009年、メタデザイン研究室
第4部 光化門空間の転換
1987年の6月民主抗争、1988年のソウルオリンピック開催、1993年の文民政府の発足、1995年の本格的な地方自治制度の実施などの社会の変化は、光化門一帯の空間にも大きな変化をもたらしました。旧朝鮮総督府の庁舎が撤去され、光化門が再び復元され、世宗路は歴史・文化を代表するシンボル的な空間として整備されました。また、世宗路十字路に地下鉄駅が設置され、1960年代以後、車中心の通りだった光化門一帯に横断歩道が設置されました。民主化以後、光化門一帯に市民が意見を交わし、交流できる広場を設けるべきだという意見が高まりました。よって1998年、公園の形の「市民ヨルリンマダン」が造られました。その後、光化門一帯は、ワールドカップ街頭応援のような国民的イベントをみんなで楽しむ舞台として、また、国民の声を発信する政治デモの場として使われるなど、長い間抑圧されてきた市民たちの交流の場となり、特有の活力を取り戻すようになります。そして2009年、ついに光化門広場が造られ、国民に開放されました。現在、光化門広場は「歩きやすい憩いの広場」を目指してリモデリングが進んでいます。
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1. 光化門の道路を占拠している警察 1987年2月7日、チョン・ミンジョ撮影 2. 光復50周年記念行事 1995年、京郷新聞 3. 旧朝鮮総督府庁舎の記録映画製作に関するアルバム 1997年、国立中央博物館 4.横断歩道の設置を要求する署名 1998-99年、緑色交通運動 5.「歩行権回復のための全国ネットワーク」の活動資料集 1999年、緑色交通運動 6.「地球の日」イベント 1999年4月25日、緑色交通運動 7.2002年ワールドカップの応援幕 2002年